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暇と退屈の倫理学


暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

インターネットで見かけて即ポチ
感性ばっちりハマるタイトル


目次を書きだしたので、
そこに対する感想を埋めていきたい所存

序章「好きなこと」とは何か?

常々、何が好きなのか
どうして好きなのか
自分はすぐ自分に問いかけてくるため
答えを用意するために、何を好ましいと感じるかについては考えている
納得こそが動く原理だからさ


自己説得は最も大切なこと
腑に落とさないと何もかもがストレスになってしまうよ
行動理念足るもの、それが好きなことよ
自分にとっては、感覚が増えていく読書、作業としてのゲームはこのあたり
満たしていこう、自分

第一章 暇と退屈の原理論――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

人間は退屈している、だから暇つぶしを求めている
人生は暇つぶし、と擦られて粉になっている その通り
現代語で言うところの"コト消費"がそれに当たる
モノを求めるのも結局のところ「手に入れた自分」に酔いたいだけ


自分の中で結論は出ている
「緩急」
これだね
嫌なこともスパイスとして必要、量が多くて辟易するけど仕方がない
反動、楽しいことを楽しいこととしてしっかり受け取る
ただ、楽しむにも体力がいる、知識がいる
これが分かっていない人間が多すぎる


どいつもこいつも踊らされており
非常に見下すに値して、俺は非常に愉快だよ
楽しむ感性を生かす土台は日々にある
どうせ過ごすのは日々しかないからね


嫌なこと、何の感想もない生活、好きなこと
これのバランスを整えることが何よりも大切
常々フィジカルもメンタルもコストとして払っている
脳汁の出力を上手いこと調整しないといけないよ
肝に銘じている


俺はニヒリズムとリアリズムのダブルスタンダード
世界はグレー、白黒つかなくて当たり前
知っている、知っているよ
感覚はハッキリした輪郭のあるものではない

第二章 暇と退屈の系譜学――人間はいつから退屈しているのか

生きるために日々の糧を得る
その糧は何故か代替可能となった
我々は資本主義の国に生まれたから


私は何故かパソコンの文字に入力すると
食糧交換を行う権利が発行される
娯楽との互換性もある
変わらない日々に対抗して、暇つぶしをしなければならない

第三章 暇と退屈の経済学――なぜ”ひまじん”が尊敬されてきたのか?

有閑階級、俺も似たようなもの
ほとんど道楽で労働者をやっている
暇のプロとしてやっている


大切にしているのは、金をコスパ良く拾うこと
金に働いてもらうと、よく言われている
金持ち父さんがそう言う
今はFIREと言われがち


社会が出来て、ギミックで働かなくてもメシが食えるバグが発生している
労働者は気づいていないだろうけど
この世は支配階級のおもちゃと化している
(陰謀論ではない)


金を出すだけで金が返ってくる魔法がかかっている
ほぼ全人類にかけられたイカれた資本主義の魔法
金は幻想だけど、具現化された金の力は非常に強い
踊ることなかれ、所詮は金 だがしかし金は最強


よくある力が欲しいか?ならば代償をうんたら
それは借りたら力で返さねばならない
資本家は経済で成り立っているこの世界で非常に大きな力がある
金は金を生む、バグなんだよ
モノは資産価値があり、資産価値があるものは未来の価値を増やす
みんなが欲しがっているものは、みんなが欲しいので価値が上がる
バブルは大きいバグだけど、小さいバグは常々跋扈している


消費ではなく投資…とか言われるのはそういうこと
俺はこっちを目指している


責任を負いたくない、そんな皆様におすすめの職業が労働者
活動時間の大半を労働に費やす以上
取るべきポーズは労働自体の喜び
処世術として、悪くないと思うよ

第四章 暇と退屈の疎外学――贅沢とは何か?

ここで出てくるファイトクラブ、予習済みでよかった
"映画大好きポンポさん"のおかげ様
映画大好きポンポさん - 読読読読読
感謝 続編もスピンオフも全部買っている、これもこれで良いよ


ニヒリズムに傾倒している俺が言うから絶対に間違っていないんだけど
全てのコトが発生することに意味はない
踏まえて、
コトは自分がどう受け取るかがすべてだ
と思っています、というかそれしかない


疎外というのは、何かがあり、そこから外れている、と
本当とか本質とか本来的とか、そういう本があるらしい
んなわけねえんだよ、と本文に出来る偉大な哲学者たちは言っている
そーゆーことではない
全ては等しく意味がない
これが答えだって、知れよ


じゃあ俺はどうするのか?
大半のことはどうでもいいので、
自分がどう感じたか?を記録し続けて、
自己分析に励んで、知識で対策をしていく
ひたすら、これしかない
考えることが趣味でよかった
ニヒリズムだけではなくリアリズムにも傾倒しないと
足元に大穴が空いて落ちてしまうよ

第五章 暇と退屈の哲学――そもそも退屈とは何か?

退屈1,2,3があるとハイデガーくんは言う
1は発信で理想が叶わぬ退屈
2は受信で発生する退屈
3は究極なんとなく


正直、3が出てきたときに笑顔になった
哲学者とは思えない答えが好きすぎる、とても人間している
哲学の土俵はこういうことが許されない空気があると思っていたけど
答えを求めていたら、答えがないことが答えだった
肩透かしの空気がたまらなく愛おしい


哲学は答えの出ない問いを無限回行うデスマッチ
死ぬまで考えるしかない
哲学は好きだけど、俺は哲学しない
答え、持ってる 答えなんてないという答え

第六章 暇と退屈の人間学――トカゲの世界をのぞくことは可能か?

答えは無理
生きる個体はすべて独立しているため、共通化されていない
阿吽の呼吸が通じる仲の他人がいても
自分の感覚と他人の感覚は違う、他人だもの
そもそも、みんなで同じ景色を見ているわけではない
当たり前のことなんだ、他人の視界になったことはないから


映像で再現されても、完全性がない
そんなものは目に映った景色を切り取っただけに過ぎない
その時の当人が着目したこと、視界の動き
どう考え、どう感じ、etc…
これを同時間の同位置でトレースできるなら、覗けるんじゃない?と思う
これが可能になることは無理でしょう
無理だからそう言ってる


故に、全人類全生物は違う次元を生きている
私とあなたは違う
私とトカゲも違う
今まで育ててきた感覚器の質が違うからね

第七章 暇と退屈の倫理学――決断することは人間の証か?

やけに日本人が褒められているが
島国という環境で閉じ込められて、スイミーと化しているのだ
大きな国々は近くて、自分もデカいけど相手もデカい状況でアップップなワケ
極東に謎の力があったのも人類としてまとまった存在
社会の塊だったからでしょう


残骸として残っているのが「空気を読む」という文化だろう
言語的に表現がないのが大半の言語
当たり前のようにあるし当たり前のようにこなせる
社会不適合者を自称している俺さえも使える
(それは社不ではない)
言語に根付いた感覚っていうのは消えない
社会生物として仕上がっている


本文で「歴史の終わり」と評されていたけど、
その通りだとは思う。江戸は社会として完成されていたんだろう
令和はもうグローバルに飲み込まれて同族化されているので
我々現代人はひとつずつゴミクズが突っ立っているだけです
どうしようもないね
日本を憂うの暇と退屈の倫理学のメインテーマではない


人間は動物と何が違うのか?
環世界と表現されている、今までの積み重ね
動物は生きているだけ、
だから生きるルーチンが崩れるのを非常に嫌う
人間はその中でも適応力が高い


生物の繁栄を考えると適応力が高い奴は高くね?と思うので疑問は残る
雑草の話とか読めば?
たたかう植物: 仁義なき生存戦略 - 憂き目
これが植物学の根源


1世代単位で考えたら適応力は人間が一番だとは思うけど、
数世代単位で対策を打ち出してくる植物は「考えている」と言っていいんじゃないか?
人間中心すぎるんじゃねえのかなーと


今そういう話じゃないからね 暇と退屈の倫理学だから

結論

本文を踏まえて、研鑽を積んでいってください
と俺は解釈をしたよ、俺は。


答えは個人によって千差万別なんだから
個人で対処してよねーそりゃそうよねー
同質、似た者、それは参考程度にしかならない
自分というのは永遠に一人、折り合いをつけていこう


未来の俺は、この時点で答えが出ていたことに関心してほしいよ
それとも何かに傾倒しているかもしれない、それは、勘弁してほしい
寄せたい方に寄っていくよ

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って書けって言われた